Category: 交遊
2011年2月10日(木) ≪残念な知らせ≫
都心の風景が変貌する中、「築地市場」や「巣鴨地蔵通り商店街」など昔のままの佇まいを保っている数少ない場所に「アメ横」がある。東京大空襲で焦土とかした御徒町~上野間の山手線高架の西側に、旧満州からの引揚者などによってアメリカ軍の払い下げ物資を安く売り捌く店が多く集まった。これが「アメ屋(「アメリカ関連物資の屋(店)横町」との含意)」と呼ばれるようになった由来らしい。「アメ横」の東側で、昭和通りを一本入った丸井の裏に、以前にもこのブログに登場した『ふみ作』という一杯飲み屋がある。
此処を切り盛りしているのが店主の三関雄三君である。彼とは、高校、大学通して一緒だったから、かれこれ半世紀近い付き合いだ。高校1年生の時同じクラスになったが、彼はその当時から181cmの身長があり、179cmの私は「上には上がいる?もんだ」と驚いた記憶がある。その彼が、昨年桑田とほぼ時を同じくして食道がんを患って手術をした。彼の家は、親父さんの時代には乾物屋から始まってジャン荘、そして今の飲み屋に変遷してきた。彼とは大学時代にフォークソンググループを結成して、練習と称して仲間内でそこに屯(たむろ)するのが常だった。
最近は、以前から店を手伝っている奥さんの"薫さん"と少し弱った"雄三"の替わりに娘の"ユカ"が店に出ている。"ユカ"は30になろうかという年齢にも拘わらず、私が行くと必ず「藤本オジサン、小遣い頂戴」と側に寄って来る。昨日、大学時代の仲間6人と今日『ふみ作』で新年会をやろうと話し合い"雄三"に電話を入れた。彼も全員周知の間柄なので、大いに喜んでくれたのは言うまでもない。そして、彼がぽろっと漏らした言葉が、『藤本、年末と年始にかけて兄貴二人が逝っちゃったよ!寂しいね(--〆)』だった。
二人の兄貴とは、六つ違いの長兄"秀ちゃん"と三つ違いの"オッ君"である。この二人の江戸っ子の正式な名前は憶えていないが、さっぱりとした性格と優しさはよく憶えている。"秀ちゃん"は貿易会社に勤務していたので、英語が堪能だった。我々が英語のフォークソングを歌っていると、『藤本、お前歌はマアマアだが英語の発音をもっと勉強しなければなぁ!』と叱咤された事があった。オッ君は、オッ君で『彼女元気か?』(結婚前)とか『奥さんを大事にしろよ!』とかポンと肩を叩いて雰囲気を和ませてくれた。もう『ふみ作』で彼らの姿を見る事が出来なくなった。残念である。合掌!
<『アメ横』三景>
2011年1月11日(火) ≪今時の新成人≫
昨日成人式を迎えた新成人の数が、124万人(男子63万人・女子61万人)と初めて人口の1%を割り込んだらしい。1970(S45)年の246万人をピークに下がり続けていて2030年には95万人、2050年には、71万人まで落ち込むらしい。少子高齢化の波は止めようにないが、結婚情報サイト・オーネットが発表したもう一つのデータには驚かされた。今年新成人となる男女800名を対象に10代の恋愛経験値を知る「恋愛意識調査」の項目では、【過去に交際経験が無い】と回答した人が全体で45.3%(男性・49.3%、女性・41.3%)と半数近い結果に。「片想いを含む恋愛の経験」に関しての設問でも【1回もない】が14.0%。こちらも男性・17.0%、女性・11.0%と、10代男性の恋愛への消極的な姿勢が浮き彫りとなったのである。
一昔前迄は、中学生や高校生のSEXなどの早熟性が問題になったが、最近では異性との接点を持ちたいという意欲も低下しているのだろうか?翻って私の大学2年生のの頃の二十歳の時代を、異性との付き合いに絞って振り返ってみよう。私は、高校・大学を通じて友人達と文京区に今も健在の医学書専門の出版会社N社でアルバイトをやっていた。主に、大学の医学部や病院向けの倉庫での発送業務を担当していたが、そこのOLさん達とグループでお付き合いをしていた。私が、大学に入りたての春だったと思う。その会社に戸板女子短大出身のM.K嬢が入社してきた。
彼女は私より1~2歳年上だったが、小柄で明るく愛くるしい顔立ちをしていたため一目で気に入り、何回かデートを重ねた。小学校時代の森田恭子先生以来の所謂『本当の初恋?』だったが、結果は敢え無く振られてしまい臍を噛んだのだ。その後彼女は、同期の上智大学出身のY氏と結婚したが、結局別れたと風の噂で伝え聞いた時は、何故か複雑な心境になった事を憶えている。私が大学に入学当初の1年間【男声合唱団】に入り、その後フォークソングバンドを組んで活動した事は前にも述べたと思う。
一方で当時、今で言う『合コン』で知り合った共立女子短大の女性たちともグループ交際で、夏はキャンプ、冬はスキーに行ってエンジョイした。硬派は学生運動、軟派は音楽をやったり女性とのグループ交際が当たり前の時代で、私は軟派の部類に入る学生だった。従って私が新成人の頃は、受験戦争から解き放たれ親の脛をかじりながら遊ぶ事が出来た最高の時代だったのである。実は、M.K女子とは後日談が有る。今から15~16年前にとある都心の喫茶店で、彼女そっくりの女性を見かけ勇気を出して、『M.Kさんですか?』と聞いてみたのだ。果たして、彼女の返事は・・・・・?
〈左:新成人で異性と交際している人は、23%しか居ないらしい。右:就職したい職種jはやはり公務員だった〉
昨日、二人の先輩が我が社に年末の挨拶に来られた。二人とも昭和16年へび年生まれで、来年目出度く"古希"を迎えられる。
I氏は、私が新入社員時代即ち40年のお付き合いで、当時彼は四国本社の某クレーンメーカーの営業マンだった。誠実な彼と入社し立ての私達二人は、クレーン販売の為に都内周辺を営業で歩き回り、大方の予想を上回る成果を上げた。その後彼は、富山と鹿児島に転勤したが、富山時代の昭和49年に、富山名物の"鱒寿司"を引っ提げて、私の結婚式場に飛び込んで来てくれた事をよく憶えている。一線を退いた後、心臓の大病を患い手術をしたが今は息災に過ごされているらしい。但し、彼が「君が結婚したら私の趣味の刀剣を一振り進呈しよう!」と言った約束は、未だに実行されていない。
もう一人のU氏は、文字通り我が中央大学の先輩だ。彼とは、彼が或る商社を経て広域レンタルの子会社のE社という関東に10店舗以上の拠点を持つ中堅の建機レンタル会社の社長をされていた約20年前に知り合った。偶々、親会社のS社が他の広域レンタルに身売りするため、孫会社として行き場がなくなったE社の収まる場所を、私が彼の古巣の商社の担当の方々と共に探し当てた事から、御縁が深まった。
彼の"母校思い"は並はずれて居り、巨人の阿部慎之介や澤村拓一の大学時代の球場での応援は、欠かさなかったようだ。来年は、沖縄興南高校のエース島袋洋奨投手が母校に入学するので胸を踊らせているようだし、今回の中大出身の「検事総長」誕生も彼の誇りなのだ。又。U氏の几帳面さは天下一品で、驚くべき事に彼の30年に亘る1日1日の生活の記録が、小さな手帳にびっしりと英語を交えて書き込まれている。
しかし、何故彼らは知遇を得たのだろうか?実はその答えは私に有った。I氏が、リタイヤーした直後、故郷の高松に帰ろうかどうか迷っているときに私は【介護用品のレンタル】をやってみないかと勧めたのだ。丁度私の兄の隆之も同い年で、定年を迎え何をするか迷っていた折、或る先達が始めたビジネスを見て思い立ち彼らをパートナーとして結びつけたのである。社名は『スマイルケアー』、名付け親は私だ。そしてその会社の経理をU氏にみて貰う事にしたのである。斯くの如く、"へび年"3人が仲良く始めたビジネスは、未だに途中で私の兄貴がスピンアウトした以外は、まずまず順調に推移しているようである。持つべきものは、≪古き良き友≫なのだ!
11月9日(火) ≪1部上場会社の専務と零細企業の社長≫
昨日何十年ぶりに、昔の同期であるI氏としこたま酒を飲んだ。彼は、今1部上場会社の専務である。彼が務めるT産業に私たちは昭和44年に入社した。確か初任給は31,000だったと記憶している。T産業は、平成8年9月に東証1部に昇格した現在資本金34億円強の三菱系の機械専門商社であるが、当時は資本金8億円の2部上場の会社だった。私は建設機械部に配属され、I氏は当時の化学機械部に配属された。彼は、成蹊大学出身の好漢で常に笑顔を絶やさない明るい青年で、当時から人気者だった。
持ち前の明るさと、鋭敏な手腕を買われナンバー2に上り詰めたが、私の数十人居た同期の中で現在たった一人残る役員である。たまたま昨日は用事が有って大手町にある同社にお邪魔したが、他の役員の方お二人と歓待してくれた。最後はI氏と二人で銀座で飲む羽目となったが、彼とは若い頃よく遊び、ゴルフの『筆おろし』も一緒だった。互いの課長が仲良しで、大宮の河川敷のコースで初めてクラブを握ったのだ。私は殆ど練習せずに、本番を迎えたので確かスコアは160前後だったと記憶している。只ひたすらに走り、喉がカラカラに乾いた事しか憶えていない。
彼とは、いかがわしい所にも一緒に行った。所謂若気の至りと言うやつだ。数十年ぶりに飲んだが、それを感じさせない"今は昔の物語"である。彼は1部上場のれっきとした役員、私は途中でスピンアウトしたしがない零細企業の社長、どちらが良いかという議論に当然の如くなっていった。彼は、私の立場の方を支持したが、果たして本気かどうかは判らない。私は、名誉もあり資金繰りの心配が無い彼の立場が羨ましいが、どちらが良いかは大企業の役員を経験していないので判断しがたい。
I氏は現在血圧の薬を含め6種類の薬を飲んでいるらしいが、『同期の星』として健康に気をつけて頂上を極めて欲しいと思っている。次に会う予定のゴルフが大いに楽しみだ。ひとつガッチリ握って彼をぎゃふんと言わせたいものである!
7月13日(火) ≪二人の「飲み屋」の親父さんたち≫
昨日の夕方、一人の友人を上野の「永寿総合病院」に大学時代の同級生吉原君と昆ちゃんと一緒に見舞った。その友人とは、三関雄三(みせきゆうぞう)君で上野駅前の「丸井」の裏で、「ふみ作」(03-3834-2339)という「飲み屋」を経営している。経営していると言えば聞こえがいいが、彼が料理して奥さんの薫さんが給仕をしたり、お客の注文でお酒を作ったりしていると言った方が正しいだろう。雄三とは、中大付属高から中央大学の同級生で、大学時代には「モンスターズ(怪物たち)」というフォークソングバンドを組んで、共に学生時代を大いに謳歌した得難い仲間である。
その彼が、食道ガンの手術を去る6月30日に受けたそうだ。今から約1カ月ちょっと前に、「ふみ作」をブラリと訪ねた際に、「藤本、俺明日胃カメラを飲むので一緒に飲めないんだよ」、「食べ物がつっかえて飲み込み辛いんで検査するんだが、初めてなんで不安なんだ」と言っていた事を思い出す。私は、10年以上前から胃カメラを毎年飲んでいるので、「雄三、全然平気だよ!なんなら俺の行きつけのクリニックの先生を紹介しようか?上田先生と言って胃カメラ検査じゃ日本では5本の指に入る名医なんだよ!」という「会話を交わした。
術後約2週間の彼は、私たちの心配をよそに大変元気だった。帰りに、薫さんと娘のユカが手伝って開けている「ふみ作」に寄った。薫さんは、昔近くの今は無き「アール」という喫茶店でウエイレスとして働いていたのを雄三が見染めたのである。先週雄三の様子うかがいに電話したした際、「雄三は元気だよ、店は私が手伝って、薫さんがやってるよ!」とまるで両親を友達扱いしている31歳になったユカとは、当然彼女が赤ちゃんの時からの付き合いだ。雄三は高校時代から吸っていた1日30本のタバコをやめたそうだが、早く我々と一緒に飲める日が来るのを祈って止まない。
山手線の大塚駅前にあるもう一つの「飲み屋」さん、「はま勢(せい)」は今週末で約30年培ってきた歴史を閉じるそうだ。この店もオーナーである丸山守康(まるやまもりやす)氏が奥さんと二人三脚で経営してきたお店だ。実は彼は、私の二男篤嗣(あつし)の嫁の父親で、昔青山大学のアメリカンフットボールで鳴らしたスポーツマンである。流石に、昭和16年生まれの寄る年に限界を感じると同時に、孫たちと触れあいを楽しむ老後を優先するために今回の決断を下したそうだ。私も何回かお邪魔して美味しい料理を頂いたそのお店に、明後日の14日に二男の家族は勿論のこと、長男の達也家族を伴って「ご苦労さま!」を言いに訪れる積りでだ。
この雄三と丸山氏に共通することは、素人ながら「水商売」の世界で店を興し、常連さんを相手に永い歴史を育んで来たことである。そして雄三は3人のお子さんたちを、同じく守山氏は2人のお子さんたちを立派に育て上げた。ただただ敬服するばかりである。
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