Category: 芸術
h2010年12月14日(火) ≪『仮名手本忠臣蔵』≫
308年前の1702(元禄15)年の今日、赤穂浪士47人が本所の吉良邸に討ち入り吉良上野介義央(きらこうづけのすけよしひさ)の首を取って、主君浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の無念を晴らしたのである。これを題材に浄瑠璃作者2代目竹田出雲が創作し、1748(寛延元)年に大阪竹本座で人形浄瑠璃として初演されたのが『仮名手本忠臣蔵』である。当時大変な人気だったそうで、直ぐに歌舞伎に移され今日まで年末の人気狂言の王座に君臨し続けている。今年も9代目松本幸四郎、所謂『高麗屋』の"当たり狂言"として息子市川染五郎と共に今月3日から国立劇場で上演されているため、私も暇を見つけて観に行く積りだ。
では何故『仮名手本忠臣蔵』と言う名前になったのだろうか?それは赤穂浪士が47人にだった事に由来している。昔の人は、寺子屋での"手習い"の最初は必ず『仮名文字』の「いろはにほへと」から習ったそうだ。「いろは」は47文字の『仮名の手本』で、更に『手本』の意味を"武士の鏡"になぞられたのである。又、「いろはにほへと」という具合に7文字づつ改行し、各フレーズの最期の文字を綴り合わせると"とかなくてしす"="咎無くて死す"即ち"無実の罪で死ぬ"となり、赤穂浪士達の無念さを外題に込めたと言う説もある。
『忠臣蔵』は、物語の主人公である『忠臣』の『大石内蔵助』から"蔵"を取って『忠臣蔵』としただけだ。我が国の物語史上NO.1のネーミングを誇るこの『忠臣蔵』は、TVでも映画でもこの時期に上演すれば必ず当たると言われている。しかし昔流に言えば、このタイトルを多く耳にする頃は、必ず一つ年を取ると言う事であり、私or我々?にとっては必ずしも"WELL COME"ではないのである。
<左:堀部家弥兵衛と堀部安兵衛 歌川国貞作と松本幸四郎のパンフレット>
10月6日(水) ≪横山大観の作品を観て・・・≫
昨日までの三日間の山陰の旅で、「大山」や「鳥取砂丘」、「天橋立」など初めて目の当たりにした自然の造形物は、人間が抗うことの出来ない素晴らしい神の作品だが、人間が丹精込めて作り上げた作品も自分が人間だけに、遥か遠くの届かないものとして大変興味を覚えた。それは「足立美術館」の息をのむような日本一の日本庭園と細かで高等な技術と心配りが感じられる横山大観の日本画である。中でも特に、昭和6年に大観が63歳の時に描いた「紅葉」(こうよう)は、群青の流水に白金泥のさざ波を加え、真紅の紅葉を配した最高最大の作品の前で私の眼は釘づけとなり、足も動かなくなってしまった。
大観は明治元年(1868年)、旧水戸藩藩士の長男として生まれ、府中一中を卒業後、私立の東京英語学校在学中に絵画に興味を抱き、洋画家・渡辺文三郎に鉛筆画を学んだ。明治21年に母方の縁戚である横山家の養子となったが、同時期に狩野派の巨匠狩野芳崖などに教えを受けたようだ。翌明治22年(1889年)、東京美術学校に第一期生として入学。岡倉天心、橋本雅邦らに学んだ。世に認められるようになったのは、美大卒業後の29歳の時に描いた「無我」と言われている。同じ題で数点の作品が有るようだが、此処に紹介する作品は悟りを開いた無心の童子が川辺に佇む姿を見事に描ききっている。
その他、昭和15年ごろ大観の画業50年の節目に描いた「山海二十題」は富士山や荒海が見事に描写されており、決して絵画に造詣が深くはない小生にもその素晴らしさは判るような気がする。台東区池之端には、大観が画家として名をなした時分時分に住んだ住居が残されている。現在は「横山大観記念館」として公開されていますので、是非皆さんも「無我の境地」探究のために訪れられようお勧めする!
【上/横山大観と29歳の時の作品「無我」、下/最も彼の作品としては絢爛豪華な「紅葉」】
9月21日(火) ≪英国ロイヤルオペラ「マノン」≫
「世界五大歌劇場」の一つである【英国ロイヤルオペラ】が18年振りに日本にやって来た。今回の公演に選ばれた作品は、ヴェルディの「椿姫」とマスネの「マノン」の2作品。今回上野の東京文化会館で私が観た「マノン」は、ここ数年、世界各地で急激に上演が増えている作品で、マノン役のアンナ・ネトレプコの小悪魔的に、ときに妖艶に、そしてときに清純にと、マノン役に要求される女優並みの演技力は、大いに期待して余り有るものだった。2010年6月に、ロンドンの初演から3ケ月足らずで日本のオペラ・ファンに披露されたフランス人ロラン・ペリーの演出、気鋭のアントニオ・パッパーノ指揮による新しい「マノン」は、英国ロイヤル・オペラの伝統と格式に新たな1ページを刻んだと称されている。
あらすじはこうだ。 "奔放で享楽的な性格から修道院に入れられることになったマノンの前に、騎士デ・グリューが現れる。マノンに一目惚れしたデ・グリューは、パリへと駆け落ちし、二人はつつましく生活している。マノンの前に貴族のブレティニーが現れ、もっと贅沢な暮らしをしようと彼女を惑わす。心揺れ動くマノンは、デ・グリューとの別れを決意する。豪奢に暮らすマノンだったが、かつての恋人デ・グリューへの想いが蘇り、二人の恋は再び燃え上がる。しかし、彼女の享楽的な生活は変わらず、マノンはデ・グリューを賭博場に連れ出し賭けに勝つが、いかさまだと告発され、二人は捉われの身となる。デ・グリューは釈放されるが、マノンはアメリカ流刑を宣告される。デ・グリューのマノンへの想いは強く、 従兄のレスコーの計らいで再会するが、真実の愛を知ったマノンは、デ・グリューの腕の中で息絶える"
S席54,000円、A席47,000円と高額にも拘わらず5階席まで満席で、芸能人を含め年配者から若い音楽家志望と思しき若者までが、2度の休憩をはさみ4時間に亘る公演を咳払い一つせずに鑑賞していたのは驚きである。確かに私もマノン・レスコー役のアンナ・ネトレプコ 、騎士デ・グリュー役のマシュー・ポレンザーニ の美声とロイヤル・オペラ合唱団の荘厳さ 、ロイヤル・オペラハウス管弦楽団 の演奏の素晴らしさに、A席の価値を充分実感したひと時であった。
4月26日(月) ≪昨日は、文化的?な日でした≫
久し振りに晴れ上がった昨日は、文化に接する事が出来た日?でした。午前中に東京国立博物館平成館で、珠玉の永青文庫コレクション「細川家の至宝展」を見て、午後はヴァイオリンのコンサートに行ってきた。
【PART1】〈細川家700年 永青文庫の至宝〉第79代の総理大臣である細川護煕(もりひろ)氏は、肥後熊本藩主細川家の第18代当主であるが、16代細川護立(もりたつ)が細川家に伝来した文化財を後世に伝える為に1950年(S25)に設立した『永青文庫』の理事長でもある。文京区の目白台の旧細川邸にあるこの施設は、「美術の殿様」と言われた護立が集めた書画骨董を始め、近世細川家の祖・細川藤孝(後の幽斉)や利休の高弟としてその名を知られている2代忠興(後の三斉)、或いは忠興の妻であったキリシタンのガラシャ(明智光秀の次女)などの遺愛の品々を数多くコレクションした美術館としてつとに有名である。
今回は、それらの珍品に加え熊本美術館に収められているものを含め、細川家の文化財を一同に集め3部に分けて公開するもので、信長や秀吉などの記録等も窺い知る事が出来る貴重なものでもあるのだ。特に細川家代々の鎧兜や刀剣、ガラシャ筆の書状や田代等甫筆の「幽斉像」や利休作の瓢花入「顔回(がんかい)」の他、見れば皆さんもご存じの菱田春草が描いた「黒き猫」や小林古径の「髪」など見事な物ばかりで、大いに堪能した。
【PART2】〈スズキメソード ヴァイオリン・コンサート〉これは、毎年この時期に国立オリンピック記念青少年センターで行われている発表会で、実は私の4歳の孫娘が出演していたのだ。昨年は習いたてと言う事もあって、出番は1番で演奏もヴァイオリンを顎の下に挟み左手は右肩に置いて、弓で「キラキラ星」のリズムを弾いた丈だが、今年は出番も4番目となり短いものの「アレグロ」と「アレグレット」の2曲を演奏するまでに成長?したのである。嫁のご両親とも久し振りにお会いし、『来年はどんな曲を弾くのだろうか』と互いに"何とか馬鹿?"を発揮しながら一緒に帰って来たのであった。
お陰様で、「万歩計」を持って4日目で初めて1万歩をオーバーしたのだ!(*^_^*)
<慌てて隠し撮りしため(撮影禁止)画像がボケてしまいました/フィナーレ:私の孫は一番前で斉奏しています>3月8日(月) ≪「骨董まつり」は、面白い!≫
昨日、足立区のK社のI社長に誘われて「平和島全国古民具骨董まつり」に行った。この骨董市はその名の通り、平和島の東京流通センターに於いて毎年5回3日間開催行われる我が国で最も古い室内骨董フェアである。今回の開催で132回目だそうで、4500平方メートルの会場に全国から260を超えるデーラーが持ち寄る数十万点の珍品・稀品目当てに、外国人や多くの好事家がありとあらゆる所から集まってくると言う。様子を眺めていると外国人は、古い陶磁器やファニチャー或いは着物に関心が有るようだ。
I氏は、毎回同じデーラーから買い求めているそうで、少し遅れて私が会場に到着した頃には、その業者が出品した花卉と酒器の二つに狙いを定めていた。一つは益子焼の花瓶ともう一つは青磁の盃だが、いずれも人間国宝の作者が焼いた見事な作品で、共に25万円という高値が付いていた。I氏は私が見ている前で、やおら値引き交渉に入ったのである。何と彼は二つで一つ分の25万円から交渉を開始したので、私は唖然として興味深く事の成り行きを見守った。
暫くの間、30万円前後の攻防で終始したが、I氏はデーラーが長野から来た業者なので当該物件を持ち帰らなくていいように絶妙のタイミングである案を持ち出したのである。それは、相手が提示した価格に1万円を上乗せした金額で「九谷焼の急須」を1個付けさせ、3点併せた金額で決着を見たのである。心憎い事に、彼は私のワイフが、以前陶器を焼いていた事や出来映えのよい陶磁器をこよなく愛でる事を知っていて、ワイフにプレゼントしてくれたのである。
私は、商売人の極意と心遣いを目の当たりにして感心すると同時に、気持ちよく急須を抱え家路に向かったのは言うまでもない。
<左上/濱田庄司氏作の花卉・右上/九谷焼の急須・右下/松井康成氏さくの酒器>


