Category: 芸能
"落語界の風雲児立川談志"が、壮絶な闘病生活の果てに身罷(みまか)った。談志は、1936年(昭和11年)生まれの75歳だった。3年前に発症し治療した喉頭がんが昨年11月に再発し、医者に「余命2~3カ月かもしれない、一刻も早く声帯を取る手術を」と言われたが、本人は拒絶し高座に上がり続けたという。談志生涯最後の高座となったのが、今年3月6日の「立川談志一門会」での『蜘蛛駕籠(くもかご)』だった。生粋の江戸っ子である談志は、高校を中退し16歳で5代目柳家こさんの門を叩き、最初は柳家小よしと名乗った。
古典落語を現代風にアレンジし彼独特の切り口で喋る歯切れ良さがうけてメキメキと頭角を現し天才と謳われたが、当時からシニカルで破天荒な言動が多く好き嫌いがはっきり分かれる噺家だった。一昔前、1932年(昭和7年)生まれで29歳で真打に昇進した5代目三遊亭円楽、1938年生まれで24歳で真打に昇進した3代目古今亭志ん朝、1934年生まれで31歳で真打に昇進した8代目橘家円蔵(当時は月の家円鏡)等と共に『江戸落語四天王』と呼ばれた時代が有った。
この中で談志が最もライバル視したのが、古今亭志ん朝だと言われている。特に1962年に、自分より5年も後に落語界に入った志ん朝が一足先に真打に昇進した時は相当ショックで落ち込んだらしい。この事が、後に師匠である小さんと袂を分かって「立川流」を創設した火種となったようだ。私は、この4人とも実際に高座で観た事が有るが、真打昇進が早かった志ん朝と談志の語り口と間の取り方は絶妙だった。当時私は、4人の中で談志が一番好きだったが、1971年に政界入りしてから一番嫌いになった。落語と政治は両立しないと思ったからだ。
談志亡き後、四天王のうち最も庶民派の円蔵が残ったが、未だコメントは出していないものの談志と仲が良かっただけにさぞや寂しい想いをしている筈だ。今頃談志と志ん朝、円楽は、あの世とやらで昔のように丁々発止とやっている事だろう。因みに談志の戒名は、立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)と言うらしいが、生前、故人自身で決めていたそうだ。
2011年8月1日(月) ≪「嫌韓」か「親韓」か?≫
今や英語、中国語と並んで韓国ハングル文字の説明書きがない日本の観光地は皆無に等しい。確かに韓国は、島国日本にとって一番近い国だし、大陸文化の中継基地として歴史的にも重要な役割を果たした国でもある。しかし、太閤秀吉のニ度に亘る朝鮮出兵(朝鮮征伐)や明治初期の政府首脳西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、後藤正象二郎、副島種臣らによってなされた、武力で朝鮮を開国しようと主張する「征韓論」の時代を経て、1910年8月の「日韓併合」に依って大韓帝国が消滅した時代を含め不幸な時代を共有?してきた事になる。
ところが1996年10月、福岡の民放テレビ局であるTXN九州が、開局5周年を記念し、韓国文化放送の「ミニシリーズ」と呼ばれるドラマを3作品放送した頃から韓国ドラマが注目を集め始めた。その後、民主化政治家の金大中大統領が誕生した1998年には韓国の開放政策、2002年の「日韓ワールドカップ共同開催」を経て、日韓両国は恩讐を超えて急速に接近し始めたのである。その間、ハン・ソッキュ主演の映画『シュリ』が日本で注目を浴び、2004年4月からNHKが放送した「冬のソナタ」の大ヒットによって、韓国ブームが巻き起こり放送作品数・放送を行う局が一気に増えたのは、周知の通りである。
更に昨年あたりから、「少女時代」や「カラ」等の女性ボーカル・グループがスタイルとお色気を武器?に新たに注目を浴び始めたが、その矢先、韓国(韓流)ブームに水を差した男が現れた。それは俳優の高岡蒼甫(29)で、何でも妻は「篤姫」やCMでもお馴染みの女優の宮崎あおい(25)らしい。彼は、「正直、お世話になったことも多々あるけど8(チャンネル)は今マジで見ない。韓国のTV局かと思う事もしばしば。うちら日本人は日本の伝統番組を求めていますけど。取り合えず韓国ネタ出てきたら消してます。ぐっばい」とツイッターで発言したのだ。
この発言は、我が国のオバサン連中?のバッシングはもとより韓国国内でも大反響を呼び、その結果所属するプロダクションを辞めざるを得なくなった様である。来日する韓国スターの言動に一喜一憂するオバサン連中や、「カラ」を真似てお尻を振る男女を苦々しく眺めて居た私としたら彼の発言に大喝さいを送りたい。「東日本大震災」という大きな試練を与えられた我々は、「なでしこジャパン」の優勝を知って舞台から降りた韓国の芸能人なんか相手にせず、日本と日本人芸能人を見直すべきである。尤も、大阪弁が飛び交う安作りのテレビ番組は見る気もしないが!そして、昨日新たに我が国の番組作りを批判する慶応大学出身の若手芸能人が現れたようである。やはり、日本人は捨てたものではないと思う。
<上の絵:「征韓論」を唱える西郷隆盛(中央)、下の写真は高岡蒼甫(たかおかそうすけ)>
バラエティ番組やクイズ番組を中心にテレビの"盛り上げ役"として活躍しているお笑い芸人たち。そんな芸人の中で、「好きな芸人」「嫌いな芸人」は誰なのか、現在発売中の雑誌「日経エンタテインメント!8月号」では、今年で10年目を迎えた恒例企画「お笑い芸人人気調査」の結果を発表た。この調査は同誌編集部がピックアップしたお笑い芸人206組を対象に質問を行い、10~60代の男女1100人から回答を得たものだ。「好きな芸人」では、明石家さんまが10年連続1位でV10の快挙を成し遂げた。
一方「嫌いな芸人」に異変が起こった。過去9年間の調査で1位を独走していた江頭2:50が陥落し、昨年2位の島田紳介がトップに立ったのだ。私は妥当な結果だと思うが、さんまと紳介は吉本の同期ながら好対照な芸風である。それは2人のトーク番組を見ていたら良く判る。さんまさんはよく喋るが、お金の話は余りしないし、したとしても自分の給料が高いみたいな自慢話はしない。要するに、イヤミのないトークだ。一方紳助は、いつも金の話題を持ち出すし妙に上から目線という感じがする。さんまさんは他のゲスト中心で話そうするが、紳助自分中心で番組を最大限利用している感じがする。
紳助は、80年代~90年代にはビートたけしや明石家さんま、ダウンタウンといったトップを走る人気芸人の陰に隠れた「永遠の二番手」のイメージがあった。実際、本人も芸能界における自分のポジションを「引き気味のミッドフィルダー」などと語っていたほどだ。そんな彼が今、時代を牽引する一番手の位置に躍り出たのだ。その活躍の原動力となっているのは、彼のプロデューサーとしての高い手腕である。紳助は、番組で共演する「史上最強の弁護士軍団」や「おバカタレント」をキャラ付けしながら巧みにいじっていくことで、お茶の間の人気者に仕立てることに成功した。また、彼が大会委員長を務める漫才コンテスト「M-1グランプリ」も、年末恒例のお笑いイベントとして、又芸人の登竜門として毎年大変な反響を呼んでいる。
今回の調査で紳介は、「好きな芸人」のランキングでも5位から16位と大きく順位を下げた。「出る杭は打たれる」式の考えもあるが、原因は若いタレントを苛めたり、自分が経営する飲食店などにおける日常の生活態度に起因しているようである。彼は「実るほど首を垂れる稲穂かな」という言葉を知っているのだろうか?ところで皆さんの≪「好きな芸人」 「嫌いな芸人」≫は誰ですか?
去る2日の土曜日、日本武道館に「オレたちだって若大将! in 日本武道館」と銘打った加山雄三ショーをワイフと一緒に見て来た。私自信特段に彼のファンではないし、東宝制作の『若大将シリーズ』も見た事がないが、ゲストに魅かれて前の日に問い合わせしたらチケットの売れ残りが有ったため申し込んだのである。ゲストとは、さだまさしと加山と同じ神奈川県出身アーティストであるゆず、秦基博、miwaでいずれも独特で素晴らし歌唱力を持つ人気・実力ともに超一流のミージシャンである。
ショーは2部構成で、1部は加山自信が作ったオリジナル曲を10曲以上歌い、若い秦基博、miwaにつないだ。加山は今迄、弾厚作(團伊玖磨と山田耕筰を足して2で割った)の名前で約520曲ほど作曲しているそうだが、私の学生時代が全盛期だったため、いずれも懐かしい曲ばかりだった。若い頃に比べ声の張りに若干衰えは感じられるものの、来年に後期高齢者となる人間とは思えない素晴らしい歌声だ。2人の弾き語りゲストの歌も、年配者が多い聴衆を魅了した。特に加山の後輩で、慶応大学に在学中のmiwaの歌声は、高音が素晴らしく私好みで一遍にファンになってしまった。
第2部は加山の作品の中で"海"に因んだ歌で始まり、メインゲストのゆずとさだまさしへと続いたが、ゆずは私の5歳の孫の蒼太郎が大ファンで、彼の家に行ったり車に乗った際にしょっちゅうDVDを見せられていたので、親近感を感じた。路上ライブ出身だけに、会場の盛り上げ方は上手で、ラジオ体操までさせられてしまった。加山とコラボしたオリンピックソング"栄光の掛け橋"が素晴らしく、終わった瞬間思わず手が痛くなるほど拍手してしまう程だ。
さだまさしが登場した瞬間から会場は笑いの渦、"関白宣言"の現代版変わり歌で笑いはピークに達した。次回のコンサートはさだまさしにしようと思った位だ。アンコールのフィナーレは、全員総出で、さだまさし作詞の皆さんもお馴染みの"ロンリーハーツ親父バンド"を合唱し大いに盛り上がったのである。その日の仕上げは、学生時代のホークソングバンドの仲間で加山と同じ三関雄三君(通称ユウゾウ)の上野の店『ふみ作』での夕食。ワイフも雄三との久し振りの再会で、この日は盛り上がりぱなしだった。
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7月23日(金) ≪「傷だらけの人生」・・・鶴田浩二≫
「古い奴だとお思いでしょうが、古い奴ほど新しいものを欲しがるものでございます。どこに新しいものががざいましょう。生まれた土地は荒れ放題、今の世の中、右も左もまっ暗闇でござんせんか」"♪何から何まで 真っ暗闇よ 筋の通らぬ事ばかり 右を向いても左を見ても ばかと阿呆の からみあい どこに男の夢がある♫" 任侠の世界を歌ったこの台詞(せりふ)入りの歌は、1971年(S46)に、47才の「鶴田浩二」が歌った大ヒッ曲である。昨日のブログで62才で没した彼に触れたが、彼を知っているのは今では恐らく40才以上の人達だろう。
私が、初めて鶴田浩二を知ったのは若き特攻隊員の苦悩を描いた『雲ながるる果てに』(家城巳代治監督、1953)を見た時からである。子供ながらに戦争の悲惨さ・残酷さと無情さに心痛めた事を思い出す。鶴田は、この映画に主演して以来、特攻隊の出身で「特攻崩れ」だとしていたが、実際には整備科予備士官であり、出撃する特攻機を見送る立場だった。戦後、「特攻崩れ」を名乗るのが一つの流行でもあったが、鶴田はあまりにも有名人であるため同じ隊の戦友会にばれ猛抗議を受けるが、一切弁明はしなかったと聞く。黙々と働いては巨額の私財を使って戦没者の遺骨収集に尽力し、「日本遺族会」にも莫大な寄付金をしたそうだ。
鶴田は、実の父親から認知されない所謂「私生児」で生まれ、義父に嫁いだ母親が遊郭で働いていたため、目が不自由な祖母から育てられそうだ。祖母が逝去し母会いたさに、遊郭へ一人で向かったが客商売の仕事中だった母は相手にしてくれなかった。その上、義父は博打好きであったため、性格が暗く、それが逆に大衆に受け石原裕次郎が出現する前までは大スターだった。1953年(S28)1月6日午後7時頃、彼は山口組に襲われた。所謂「鶴田浩二襲撃事件」である。
鶴田は美空ひばりの芸能界の兄貴的存在であり、美空の後ろ盾である山口組の三代目組長田岡一雄とは旧知の間柄であったにもかかわらず起きた事件だった。後に田岡は鶴田と会う機会があったが、田岡は脅しや暴力に屈しない鶴田の筋を通す生き方を認め和解、親交を深める事になっていく。「三代目の前で堂々としているのは鶴田ぐらいのもの」と周囲が驚くほどであった。当時トップスターを襲ったこの事件は大きく報道され、まだ一地方の組であった山口組が一気に全国的知名度を持つことになった。それと同時に山口組の機嫌を損ねるとひどい目に遭うという恐怖を日本の芸能界興行界に定着させることになったのである。
今「相撲界」が、この手合いの輩たちとの繋がりで世間を騒がせている。彼らに言いなりの印象が強く、鶴田のように腰の据わった相撲取りは、今は居ないのだろうか?
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