Category: 歴史

tc1.search.naver.jpeg現在のフランスとイギリスの国境線を決定した「百年戦争」で、フランスの勝利に寄与した「オルレアンの少女或いは乙女」と呼ばれるジャンヌ・ダルクが、1431年にフランス西部の都市ルーアンに於いて、火あぶりの刑に処せられた。その時彼女は、19歳だった。常に男装していたジャンヌは、コンピエーニュの戦いで捕虜となり、宗教裁判にかけられ悪魔崇拝や神の冒涜を犯した異端児であると結論づけられ断罪された。魔女扱いされた彼女は、敵味方から見放されて火刑に処せられることになったのだ。

無月経で痩せていた彼女は、一説によると癲癇(てんかん)持ちだったと言われている。そういう観点からすると、1999年に公開されたリック・ベンソン監督の映画『ジャンヌ・ダルク』で、ジャンヌ・ダルクを演じていたミラ・ジョボヴィッチは、適役だったと思う。今日、ジャンヌをフランスの英雄として復権させたのは、ナポレオン・ボナパルトと言われている。ナポレオンは、フランス人として初めてジャンヌ・ダルクを評価し、フランスの救世主として大々的に紹介した。そうすることに依って、ナポレオン自身の皇帝の地位の正当化する目的があったからだ。

今でも残るイギリス人とフランス人との民族的な対立意識は、「百年戦争」に端を発していると言われている。その後、フランスのナショナリズムの高まりとともにジャンヌの評価は、上がってきたがイギリス国内では、彼女は長い間「魔女」のままだった。その証拠に、シェークス・ピアが描いた史劇『ヘンリー六世・第一部』( 1592年)でのジャンヌの描き方はその典型例だと言われている。欧米諸国では、魂まで焼きつくし復活が叶わない生きながらの火刑は、最も過酷な死刑だと言われ続けてきた。

広場の中央でうずたかく積み上げられた薪に、火がつけられんとする瞬間にも、奇跡が起きて自分は救い出されると信じて疑わなかった「オルレアンの少女(乙女)」ジャンヌの火刑は、580年前の今日5月30日に行われたのだった・・・・・ kaiga.jpeg 070602_jeannedarc.jpeg imgb831b7b4zikezj.jpeg      ①上はオルレアンを解放したジャンヌ・ダルク

                            ②ドラクロアが描いた有名なジャンヌ・ダルクの絵画

                            ③ルーブル観術館前に有る金張りの騎馬像

                            ④ジャンヌ・ダルクを演じたミラ・ジョボヴィッチ

                            ⑤火あぶりにされるジャンヌ・ダルク

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我が国最古の通貨と言われている「和同開珎」(わどうかいほう・わどうかいちん)が、今から1300年前の708年(和同元年)の今日5月11日に初めて鋳造・発行された。わたしたちの毎日の暮らしに「お金」は欠かせないものだが、我が国で広く使われた最初の通貨である「開珎」は、直径24mm前後の円形で、中央には一辺が約7mmの正方形の穴が開いている円形の銭貨である。唐の「開元通宝」を模したと言われるこの通貨には、時計回りに<和-同-開-珎>と表記されているが、裏は無紋である。

元々、元明天皇の慶雲五年(708年)、我が国初のニギアカガネ(自然銅)が秩父の地で見つかり、朝廷に献上されたことから鋳造が始まったと言われている。和同開珎が登場したことによって、奈良の都(みやこ)びとは暮らしに必要な品々を容易に売買できるようになった。しかし一方で借金返済の苦労やニセ金製造の横行といった負の記録も残されているという。サテ、ここで今日のテーマだが、我々の小学校時代には「わどうかいほう」と習ったような記憶がある。しかし、今では「わどうかいちん」説が優勢のようだ。

p_monument.gif和同開珎は、「」の字が「」の異体字である「」の略字であると考えられ、以後公式に鋳造された銭には一貫して「」の文字が使用されたことから、「わどうかいほう」と読む説が主流だった。一方「珎」は、「」の異体字という立場に立って「わどうかいちん」と読むという説もあり、江戸時代から150年以上論争が続いてきた。カイチン説の裏付けとなるものとして、正倉院の古い文書にある「国家珎寳」という文字だ。珎が寳の略字だとするならば二つ重ねるのに別々の「ホウ」の字を使うというのは、奇妙である。この文字を、「国家チンホウ」と読む事から「カイチン」説の有力になったのである。

<写真は秩父市和同温泉近くにある、高さ五メートルもある「和同開珎」のモニュメント。大きな円は「」をあらわし、四角が「」をあらわしている。>

 

200px-Takeda_Shingen.jpeg今から438年前の元亀4年(1573年)、甲斐の武田信玄が三河に侵攻し、野田城を落とした直後に結核の容体が悪化し、甲斐に引き返す途中の三河街道上で息を引き取った。享年53歳だった。『甲陽軍鑑』に描かれる伝説的な人物像はつとに名高く、「風林火山」の軍旗を用いて無敵と呼ばれた騎馬軍団を率い、好敵手である越後の上杉謙信と「川中島」で雌雄を決する事が出来ない壮絶な戦いを展開したのである。

信玄は今わの際に、「自身の死を3年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈める事」や、勝頼に対しては「信勝(嫡男)継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼る事」を言い残しとされている。黒澤明の映画『影武者』では、遺体を諏訪湖に沈めるシーンが有ったように記憶しているが、これは事実と異なるらしい。しかし、信玄の死後に家督を相続した勝頼は遺言を守り、信玄の葬儀を行わずに死を3年間隠し続けたという。

ところで意外に知られてないのが、この武田信玄が≪水洗トイレの信奉者?≫だったという事だ。信玄は、甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)に水洗トイレを設置している。館の裏から流れる水を利用し、厠(かわや)に入った信玄がひもを引いて鈴を鳴らすと配備された数人の家臣が、次々に連携して上流の者が水を流すシステムだったそうだ。信玄はここをと言呼んでいたそうだ。家臣が「何故、厠を山と言うのですか?」と聞いた処、信玄は「山には常に、草木(臭き)が絶えぬから」と答えたと言う。

歴史を作る人物は、勇気も有るがユーモアも持ち合わせているものだと感心しきりの事実である。

昨日私は、無くして欲しくない日本の文化的な財産の一つ?として「芸者」さんを挙げた。そこで、"芸妓の歴史"に付いて調べて行くうちに、≪中村喜春(きはる)≫と言う女性に行き着いたのだ。今から7年前の1月にニューヨークの自宅で90歳の人生を閉じた彼女は、400年続く赤坂や神楽坂など6つの東京の花街の中で、最も名を馳せた伝説の「芸者」だ。≪喜春≫は、英語が出来た唯一の新橋芸者として、ベーブ・ルースや親日家のチャールズ・チャップリン、新聞王ウイリアム・ハースト或いは詩人のジャン・コクトーなど海外からの著名人を接待した事で有名だ。特にジャンコクトーは喜春を『ハッピースプリング』と呼び非常に可愛がったと、私も聞いたことが有る。

芸者が始めて歴史に登場したのは平安時代で、当時流行していた歌や踊りを披露する遊女・白拍子(しらびょうし)がそれだ。かの源義経の恋人、静御前も白拍子で、スイカンにエボシ、という男装で舞い、一世を風靡したと言う。やがて戦乱の世となり、白拍子は廃れたが、再び平和が訪れた江戸時代に京都・八坂神社近くの東山地区の水茶屋で、料理を運んでいた娘たちがお客を喜ばせるために、いつしか当時流行り始めた歌舞伎を真似て、三味線や踊りを披露するようになった。この風習はまもなく江戸にも伝わり、「踊り子」と呼ばれるようになったのが、芸者の元祖だという。

芸者制度は、当時遊郭の中で形作られていったものの、いわゆる体を売る「娼妓」(しょうぎ)」とはきっちり区別されていた。その例として、太夫など娼妓が右手でお引きずりの裾をもって歩くのに対し、芸者は左手(左づま)だ。これは左で裾をもつと、あわせと逆になり、着物の中に手が入れられなくなるためだ。又、足の美しさをみせるため、娼妓は決して足袋は履かなかったが、芸者にとって足袋は必需品だ。実は私たちの生活にも、芸者の世界から生まれたものも数多くある。例えば、「独立する」という意味で使う「一本立ち」。この「一本」とは、時計が無かった時代にお座敷で時間を計るのに使っていた線香を指す。「なご趣味ですね」などと言う時に使う「おつ」は、粋の意味であるが、これはれは三味線の低い音のことを乙、と呼ぶ事からきている。

当時、政財界でも一番の人気者だった≪喜春≫は、昭和31年42歳の若さで「花柳界」から足を洗い、大好きなアメリカに旅立った。アメリカのでの生活は、芸者を含めた日本の文化を、多くのアメリカ人に正しく知って貰う為に、どこにでも着物姿で出掛けて行ったという。和装は日本人である自分の誇りであり、様々な人種がいるニューヨークでは、日本人として自信を持って生活することが大事だと考えたのだ。その後、日本製品の展示会などで、ショーモデルを努め、生計をたてていた彼女。優雅な身振りで商品の説明をする彼女は、アメリカ人の間でたちまち人気者になったそうだ。

その証が、アメリカの有力新聞に掲載された彼女の死亡記事だった。

  285475.jpeg<若い頃と70歳代の喜春さん> main.200.jpeg

石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ

この辞世の句と、「絶景かな、絶景かな。春の眺めを値千金とは小さいたとえ・・・・」と、南禅寺山門上で市中を眺めて言ったセリフ(並木五瓶作「金門五山桐」)で有名な石川五右衛門が、文禄3年の今日8月24日(今の暦では1594年10月8日)に、京都三条河原で一子と共に釜で煎り殺された。歌舞伎の世界では五右衛門は、晩年老醜をさらけ出し千利休や一度は後継者に指名した豊臣秀次とその室及び子女三十九人を公開処刑するなどの蛮行を行った豊臣秀吉を討とうとする義賊として描かれている。

史料に残された稀代の大泥棒石川五右衛門の記録は、いずれも彼の処刑に関わるものだけらしい。まず、安土桃山時代から江戸初期の20年間ほど日本に貿易商として滞在していたアビラ・ヒロンの記した『日本王国記』に、かつて都(京都)を荒らしまわる集団がいたが、15人の頭目が捕らえられ京都の三条河原で生きたまま油で煮られたとの記述があると言う。又、これに宣教師として日本に滞在していたペドロ・モレホンが注釈を入れており、「この事件は1594年の夏である。油で煮られたのは「Ixicava goyemon」とその家族9人乃至は10人であった。彼らは兵士のような形をしていて10人か20人の者が磔になった」と記している。

これに依って、石川五右衛門が実在の人物である事が立証されたようだが、五右衛門の最期には面白いエピソードが有る。この"釜ゆで"に付いていくつか説があり、子供と一緒に処刑されることになったが高温の釜の中で自分が息絶えるまで子供を持ち上げていた説と、途中まで持ち上げていたが、余りの熱さに最後には子供を下敷きにしたと言う説もある。最近も、猛暑と飢餓で二人の幼い子供たちを死に至らしめた母親が居たが、彼女は石川五右衛門に勝るとも劣らない極悪非道な人間かもしれない? 250px-Excecution_of_Goemon_Ishikawa.jpeg                    <処刑される石川五右衛門を描いた錦絵>