Category: 歴史
今日、北朝鮮の金正日の国葬が行われたが、金日成同様遺体は完全保存されるそうだ。遺体の保存は、古代におけるミイラにまで遡るようだ。遺体の保存方法を通常、「エンバーミング」(embalming)と言って、その歴史は人類の歴史そのものである。日本語では死体防腐処理、遺体衛生保全などという。長年火葬を禁止し、土葬が基本の欧米では、遺体から感染症らが蔓延することを防止する目的もあるが、火葬が基本の我が国では施す事は稀のようだ。アメリカには葬儀大学校というのが有って研究も進んでいるらしいが、急速に発展する契機となったのは、1860年代アメリカの南北戦争であるといわれている。
ネットで調べた処、 現代のエンバーミングは、具体的には以下の方法で行われているそうだ。
- 全身の消毒処理、及び洗浄を行う。
- 遺体の表情を整え、必要に応じて髭を剃るなどの処理を行う。
- 遺体に少切開(主に頸部など)を施し、動脈より体内に防腐剤を注入。同時に静脈より血液を抜く。
- 腹部に約1cmの穴を開け、そこから鋼管を刺し胸腔・腹腔部に残った体液や、腐敗を起こしやすい消化器官内の残存物を吸引し除去する。また同時にそれらの部分にも防腐剤を注入する。
- 切開を施した部位を縫合し、事故などで損傷箇所がある場合はその部分の修復も行う。この時、切開を行った部分にはテープ等を貼り目立たなくする。
- 再度全身・毛髪を洗浄し、遺族より依頼のあった衣装を着せ、表情を整え直した上で納棺する。
このような処理を行われた遺体は注入される防腐剤の濃度や量により数日~2週間程度までは常温での保存が可能だそうだ。又、これ以上に徹底した処理を行えば、保存可能期間を更に延長することができ、防腐剤の交換など定期的なメンテナンスを行えば、生前の姿のまま保存展示を実現することが可能だという。
このエンバーミングが施された有名な政治家は、レーニン(写真左)、スターリン、ホー・チ・ミン、毛沢東(左から2番目)など社会主義国の宰相が多いが、アルジェンチンのエバ・ペロン(元女優で政治家)は例外である。政治家以外では、マリリン・モンロー(左から3番目)、テレサ・テン(1番右)、マイケル・ジャクソンなどが保存されているらしいが、日本人では俳優の松平健の奥さんだった松本友里さんも施したと聞いている。私がこの「エンバーミング」に付いて詳しいのは、訳が有る。
約20年近く前、当時川越に住んでいた長兄が深夜の会社帰りに轢き逃げで亡くなった際、班員捜査の為遺体の保存が必要となり、埼玉の防衛医科大学校病院でこの技術が施されたのだ。残念ながら犯人は検挙されなかったが、今回の北朝鮮の報道で当時の忌まわしき記憶がが蘇ってきた。
2004年の3月にオープンしたその建物は、永代通りと中央通りが交わる日本橋交差点に位置し、日本橋駅とも地下で直結していることから、『お江戸日本橋』の新しいランドマーク的な存在となっている。この地は以前、東急百貨店のルーツと言うべき「白木屋本店」が有った場所で、2000年代に入ってから「コレド日本橋」として日本橋エリアに於ける初めての大規模な再開発により新たなビルとして竣工した。、「日本橋三越」と並んで日本橋地区の有名デパートだった「白木屋」は、『乗っ取り』という城山三郎の小説の舞台にもなったが、今ではその名前を知る人も少なくなったろう。
79年前の昭和7年(1932年)の今日9月16日、開店直後の「白木屋」4階のオモチャ売る場から出火し、火はみるみる地上8階建ての4階以上の部分に燃え広がった。この火災は、12時過ぎに鎮火したが逃げ遅れた客や店員ら14人が死亡し500人余りが重軽傷を負ったそうだ。決死の覚悟で猛炎の中に飛び込んで行った消防隊員の指示で店員の女性達が次々にロープを伝って下に降りていったが、地上から吹き上げてくる風で和服の裾が乱れ、両手で握っていたロープから片手を離して裾を押さえたため支えきれず転落した女性が続出したという。
この事件以降、女性の洋装が増えズロースを着けるようになったというこの≪日本橋白木屋火災・・・ズロース伝説≫を、私は中学の授業で社会の先生から初めて教わったが、思春期とて当時大いに関心が有った事を憶えて居る。但し、この≪ズロース伝説≫は些か疑わしい。と言うのは、私の調べた限りでは、一般の女性がズロース(パンツ)を着けるようになったのは終戦後のことであり、当時は和装の女性が下着を着用することはなかった(所謂ノーパン)ようだ。真偽の程は判らないが、この歴史的≪日本橋白木屋火災・・・ズロース伝説≫についてご存じの方は、是非ご一報を!
<写真左上は「コレド日本橋」、下は建設当時の地上8階地下2階の「白木屋」、右上は燃え盛る「白木屋」>
惚れた仕事に 命を掛けて 散るも華だよ 男なら
花の文左の みかん船
この歌は1966年の第17回の紅白歌合戦で三波春夫が、トリで歌った『紀伊国屋文左衛門』の1番の歌詞である。紀伊国屋文左衛門は、我々商売人にとって師匠と思しき「商売の神様」なのだ。文左衛門は誰もが一度は名前を聞いた事が有る江戸時代の豪商で、特に嵐の中を船をかってみかんを江戸に運んだ話はつとに有名だ。「経営の神様」といわれた同じ和歌山県出身の松下幸之助も、先輩として崇めたてまつり、墓所の勝楽寺に立派な石碑を建立している。
文左衛門は、故郷で産するミカンを江戸にはこび、帰りの船で江戸から塩鮭を上方に運送して財をなしたと伝えられている。その時得た5万両(江戸初期だから1両=7万円前後?)を元手に、文左衛門は江戸の本八丁堀3丁目に居を構え、幼さない頃から目指していた材木問屋を始めた。当時風が強かった江戸は、しょっちゅう火事が起こり10年経つと江戸の町が全て焼失するほど燃えてしまうのだ。16978年(元禄10)ごろには老中柳沢吉保や勘定頭の荻原重秀と結びついて、駿府の豪商松木新左衛門とともに、御用達商人として上野寛永寺根本中堂の用材調達を請け負う程になっていた。
こうした材木の事業は巨利を生み、当時奈良屋茂左衛門とならび全盛をきわめた。日常生活でも金銭をおしまず、吉原で豪遊したため紀文大尽(だいじん)と言われ、その話題が話題を呼んで商売も隆盛を極めた。しかし、1700年幕府御用達の特権をうばわれたうえ、柳沢・荻原らが引退したことで商売もふるわなくなり、更に深川木場の火災で所有する材木を焼失したため、正徳年間(1711~16)材木商を廃業した。その後は、深川八幡(江東区)に閑居し、宝井基角らの俳人と交流を深め俳句を詠んで悠々自適に暮らし、66歳で天寿を全うしたと伝えられている。
商売人としては、「太く長く生きた」何と素晴らしい人生だろうか!尚、食料品や「紀伊国屋」や「紀伊国屋書店」は、文左衛門とは縁もゆかりもない事を此処に付け加える。
2011年9月1日(木) ≪「防災の日」≫
「大正12年9月1日正午、源を伊豆大島付近の海中に発した地震は、東京湾、相模湾沿岸一帯の地方をゆりつぶして、同時に各所に発した火のために、大東京の大半、横浜・横須賀の全部は焼き払われ、死傷算なく、沿海海底の地形に大変化を示し、その損害程度にいたっては、実に世界有史以来と伝えられる。ここにその顛末を記して、後世の記録に残すゆえんである。」
今日は≪「防災の日」≫、88年前のこの日、関東大震災が起き10万人を超える犠牲者が出たことに因むが、これは当時の状況を伝える新聞の記述である。そして更にこう繋いでいる。「人々、ホッと息をついた昼頃、どこでも午餐の支度を整え、或いは食卓についている時分、不意にどこからともなく、異様の音響が起こったかと思うと、忽ち大地が波うちはじめて、振動は次第に激しく、やがて一大震動とともに、壁が崩れ、屋根が落ち、塀が倒れ、柱が折れ、家という家はことごとく大破し、あるいは倒れ、或いは潰れた。」
その後、阿鼻叫喚の大地獄は、至る所に現出され1都6県で多くの犠牲者が出たのである。その時、与謝野晶子はこんな短歌を詠んでいる。
「休みなく地震(ない)して秋の月明(げつめい)にあはれ燃ゆるか東京の街 」
そして1年後、《過去は日々に遠くなる、未来は日々に近くなる、一日を経れば一日だけ大災建設の日には近づくのである。此の際は一にも勇気である、二にも勇気である、三にも四にも何にも彼にも勇気である》(幸田露伴「震災者に贈る言葉」)、東京は驚異的な復興の階(きざはし)である石鎚の音が聞こえ始めるのである。
今、野田新総理に求められるのは復興に向けての強烈なリーダーシップである。1年後の野田政権に期待したいのだが?
<上の写真は、警視庁と上野周辺の惨状。下は、復興が始まった1年後の銀座界隈>
2011年7月26日(火) ≪UH03が「機械遺産」に≫
皆さんは、2007年6月に日本機械学会の設立110周年を記念して設けられた「機械遺産」という制度をご存じだろうか?この制度は、国内の機械の中でも特に我々の生活に大きな影響を与えた機械・機器、関連システム、工場、設計仕様書、教科書などを記念物として認定するものである。「機械遺産」の選定基準は社会発展に貢献した機械であること、現存していて実際に動かせる状態であることだそうだ。日本機械学会では毎年数件ずつ選定し、10年間で100件ほどを認定する予定だという。
機械遺産は
- Site(機械遺産のある歴史的な風景)
- Landmark(機械を含む象徴的な建造物・構造物)
- Collection(保存・収集された機械)
- Documents(記録に残る機械関連文書類)
の4つの区分に分けられている。
実は私も、今日の日本経済新聞の社会面の記事を読んで初めて知ったのだ。そして注目すべきは、Collection部門で何と日立建機製の油圧ショベルUH-03型(写真上・茨城県)が選ばれたのだ。この機種は、純国産の油圧ショベル第一号で、私も良く知っている機種である。我が国における油圧ショベルの歴史は、1961年(S36年)にSICAM(シカム)社と技術提携した新三菱重工 (現 三菱重工業)が「ユンボ」(仏語でディズニーのダンボの意味)Y-35型に始まる。実は私は、三菱系の商社に入社し、建設機械部に配属されこの油圧ショベルの代名詞とされていた「ユンボ」、それもY-35を売った経験があるのだ。
当時掘削機と呼ばれていた油圧ショベルの出現は、建設工事における省人化に拍車をかけ、当初「ユンボ」は飛ぶように売れた。コマツを始め日本製鋼、住友重工業、油谷重工などの有力メーカーがアメリカやヨーロッパのメーカーの技術供与を受けて相次いで新機種を上市させたが、そこに登場したのが日立製作所から分社化されたばかりの日立建機が独自に開発したUH-03だった。優れた技術に裏打ちされた製品の良さも有ったが、工場が当時足立区の大谷田に有った事もあって数年間で東京の城東地区を瞬く間に席巻したのである。
城東地区で売れたのには理由が有った。当時我が国は発展途上で、東京都内にこのような大きな建設機械を置ける場所は、足立、葛飾、江戸川しか無かったのだ。油圧ショベルの歴史を語らせれば人後に落ちない私だが、長くなるので今日はこの辺にしておこう。但し、これだけは言っておきたい。油圧ショベルの歴史を語るにはこのUH-03とY-35は欠かすことの出来ない存在なのだ。UH-03よ、「機械遺産」登録、オメデトウ!



