Category: 旅行
2012年2月6日(月) ≪2012年、最悪の日≫
2月3日金曜日朝8時(日本時間4日夜11時)無事にシカゴ(ORD)空港にANAのNH012便は到着した。ニューオーリンズへの乗り継ぎ便ユナイテッド航空UA333の出発時間は、9時38分。預けたスーツケースを取って乗継しても充分時間は有ると、鷹揚に構えシカゴのイミグレーションで入国手続きが済むのを並んで待っていた。ところが窓口が少ないため、行列は一向に進まず、途中からイライラしっぱなしで、漸くイミグレーションを通り抜けたのは出発の30分前だ。慌てて同行の全建リース協の角口会長をせかしながら、次のターミナルへとシャトル電車に乗り込み、降りた途端スーツケースをコンベアーにドロップしターミナル3に向かった。
何故かそこで再び、出国手続き同様の検査を受けターミナル3に入ったが、チケットを見せて乗り場を係員に尋ねたところ、乗り場はターミナル1だという。その時点で既に出発10分前、悪いことに脱いだハーフブーツに足が中々入らず、途中までその恰好で走ってターミナル1に向かった。しかし、どう考えてもきちんと履いて走った方が早いと悟り、履き直しって漸く搭乗口に辿り着いた。やれやれと胸をなで下ろし後ろを振り返ったところ、両手に紙袋抱え乍ついて来てくれてっると思った角口氏の姿が見えない。時計の針を覗いたところ、何と出発時間の3分過ぎ、止む無くたどたどしい英語で事情を説明し?もう少し待ってくれるよう頼んだら3分間だけ待つというつれない返事。
その待ち時間の長かった事!そしてドアが閉まる寸前、彼が乗り場に飛び込んできた。何でも走ってくる途中、横道にそれて又戻ってきたという。汗だくだくになりながら二人は、ファーストクラスの最前列の倒れこんだが、周りの冷たい視線が突き刺さるのを感じついて出た言葉が『アイム ソーリー!』。それから落着きを取戻し2時間20分後にニューオーリンズに到着、1番に機内を出て荷物引取所でスーツケースが出てくるのを、待っていた。ところが待てど暮らせど我々スーツケースだけが姿を現さない。"最後に入れたので最後に出てくるんだ"と言い聞かせ、更に待つこと15分、結局スーツケースは出てこずじまい。慌ててユナイテッド航空の荷物担当デスクに飛び込み、事情を説明し調べて貰ったところ、角口氏の荷物は未だシカゴに有るという答えが返ってきた。
しかし、この時点では私のスーツケースの行方は掴めなかった。何故なら、私は迂闊にも預けた番号札を、成田から乗った全日空の畿内に忘れてきてしまったのである。いかつい顔をした黒人の係員に、スーツケースの色・形を説明し、早急に滞在するホテルに送り届けてくれるように用紙に書き込んで渡したところ、シカゴに有ればその日の夜までには届けるという返事が返ってきた。不安な気持ちでタクシーに乗り込んだが、この続きは長くなるので明日にする事にしよう!・・・不運はなお続く?
<①ミシシッピー川のほとりのジャズのストリートミュージシャン、②ミシシッピー川を行く大型貨物船(まるで海みたい)③」観光客、大道芸人、アーチストが集まるジャクソン広場、中央セントルイス大聖堂をバックに第7代大統領アンドリュー・ジャクソンの騎馬像が見える④とても一人では食べきれない昼食のハンバーガー>
午前11時20分発の成田空港からのフライトでアメリカに旅立つ予定だ。目的は、アメリカレンタル業協会(ARA・本部イリノイ州ウオリーリン)が主催するニューオーリンズのレンタルショーに招かれたためだ。ARAのレンタルショーは、毎年持ち回りで四つの都市を巡っているらしいが、今年はニューオーリンズで開催される。海外は、2009年1月のハワイ以来だし、当地がジャズ発祥の地という事で音楽好きな私としては少し興奮気味である。かの有名なルイ・アームストロングもここ出身だと聞いている。
ニューオーリンズの人口は約48万人で、略千葉県の市川市の人口に毛の生えた程度だ。メキシコ湾に面しているため、ハリーケーンに襲われる事がしばしばで、2005年8月のハリケーン・カトリーナが襲来し壊滅的な被害を被ったことは記憶に新しい。アメリカ映画をこよなく愛する私だが、ニューオーリンズを舞台とした映画を調べてみると、『欲望と言う名の電車』(1951年/エリア・カザン監督)や『イージーライダー』(1969年/デニス・ホッパー監督)、『ペリカン文書』(1993年/アラン・J・バクラ監督)他名画が目白押しである。
ご当地に付いては、下調べをしてもっと書きたい事が有るものの、家を出る時間が迫って来たのでこの位にしよう。現地からの私のレポートを乞うご期待!
2011年12月2日(金) ≪「長崎は今日も雨だった」≫
今日の午後から九州の長崎市に来ている。全建リース協の今年最後の正副会長会議が、長崎で催されるからだ。宿泊及び会議場所は、全建リース協のK会長に無理を言って彼が経営する『稲佐山温泉ホテルアマンディ』を使わせてもらったが、露天風呂からの街を見下ろす眺望が素晴らしく、噂に違わず素晴らしいホテルである。長崎市は人口約44万人の中規模都市だ。人口だけで言うと、我が千葉県の柏市(40万人)より少し大きく市川市(47万人)よりも少し小さい規模の都市となる。
昔から、外国への玄関口として発展してきた港湾都市で、江戸時代の「鎖国時代」には国内唯一の貿易港出島を持ち、ヨーロッパ、主にオランダから多くの物資や文化が入ってきた。バドミントン、ビリヤード、ボウリング(日本人として最初にプレーしたのが坂本龍馬?)等の発祥の地で、コーヒー豆が最初に輸入された地である。汽車が最初に走ったのも長崎だし、キリンビールの発祥の地とも聞いている。又、終戦の年の8月9日午前11時2分にアメリカ軍の爆撃機に依り原子爆弾が投下された悲しい歴史を有する街でもあるのだ。
私が福岡に赴任していた約5年間に、仕事で何度もこの地を訪れた。ちんちん電車が行き交この街は、市域面積の13.1%である市街地に人口の約78%が住むという人口密度が高い都市だ。従って、道路も狭く雨が降ると渋滞が常態化するので余り好きな都市ではなかったが、久し振り来てみると坂が多く変化に富んだいい街並みである。長崎出身の芸能人も多く、今人気の福山 雅治他、さだまさし、役所 広司、草野 仁、原田 知代、前川 清、美輪 明弘、MISIA、蛭子 能収(漫画家)等の出身地で、野球の選手では、城島 健司や新庄 剛志が出ている。人口比からすると、長崎県民は中央志向が強いのかも知れない。
今会議が終わって少しくつろいでいる時間だが、そろそろ夕食の時間が迫ってきた。外はそぼ降る雨、今夜はどんな美味しい(長崎)料理が食べれるだろうか?楽しみになってきた。
<左が有名なメガネ橋、中央は額縁に入った写真のような錯覚に陥るホテルの部屋からの眺望。右はホテルの近くに有る福山雅治の実家>
2011年11月15日(火) ≪桜島と霧島温泉郷≫
桜島は、鹿児島県の錦江湾にある東西12km、南北10km、高さ1,117mの火山島である。昔は文字通り島であったが、1914年(大正3年)の噴火により大隅半島と陸続きとなったそうだ。NHKの「篤姫」でも常に出てきたが、鹿児島の中心部にシンボルとして聳え立っている。運良くか運悪くか丁度我々がフェリーに乗り込んだ途端、噴火が始まった。お蔭で島に着いて有村溶岩展望所に立った頃には、火山灰が降り注ぎハンカチで口と鼻を押さえないと少し息苦しい位だった。
その後予定に入っていなかったが、黒酢を制作しているメーカーを訪れ土産物を購入し次の宿泊地である霧島温泉郷に向かった。「神々が舞い降りた」をうたい文句にしている霧島温泉郷には幾つかの温泉街が有るそうだが、その中の一つ「栄乃尾(えいのお)温泉は、坂本竜馬が妻のお龍(りょう)さんと新婚旅行を兼ねて長期療養中の小松帯刀(たてわき)を見舞った温泉として有名である。我々が泊まった「霧島観光ホテル」は、皇太子殿下も植樹祭の折に昼食を取るために立ち寄った事もある、歴史あるホテルで最上階に有る展望風呂から眺める景色は最高だった。
今日は、鵜戸神宮を始め宮崎を巡っているがこの温泉を満喫した2泊三日のこの旅は、明日からの働く糧になった事は、紛れもない事実だ。
写真は、フェリーから望む桜島、黒酢の貯蔵場、霧島観光ホテルの露店風呂、シーサイドドの鵜戸神宮、海の中道を歩いて渡る青島
2011年11月14日(月) ≪南九州市知覧町≫
昨日から年1回の兄弟旅行で南九州に来ている。昨日の夜は、鹿児島県の指宿温泉泊りで「砂蒸し風呂」を堪能した。鹿児島は、九州時代に何度か訪れているが、未だ行く機会が無くて気になっている場所があった。それは,鹿児島市から南南西36kmの薩摩半島の南端に位置する≪南九州市知覧(ちらん≫町≫である。江戸時代は島津氏の傍流、佐多島津氏による統治が行われ享保年間には、現存する上級武士の住居と外敵からの防御を兼ねた武家屋敷が築かれた。1941年には町内に陸軍知覧飛行場が完成したが、太平洋戦争末期の沖縄戦では、本土最南端の飛行場として"神風特別攻撃隊"の出撃地となったのだ。
私たちは、「知覧武家屋敷群」を見学した後、『知覧特攻平和会館』を訪れた。ここには、人類史上類がない爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たりした陸軍特別攻撃隊の隊員の遺影、遺品、記録などの貴重な資料を収集・保存・展示して当時の真情を後世に伝え、世界平和に寄与するために昭和50年(当初は遺品館と称した)に建設されたものである。沖縄戦で戦死した特攻隊員1036名の1部は台湾から出撃したが、殆どがこの知覧飛行所から飛び立った。特攻戦死者の3分の1が、10代の少年飛行兵だった。最年少が17歳だというから、彼等は成人前に数日間世話をしてくれた女学生に見送られて、逝ってしまったのだ。
彼らが薩摩富士といわれる"開聞岳"に翼を揺らして別れを告げながら沖縄に向けて飛び立ったのは、終戦の5か月前の3月から数か月間だった。敗色濃い太平洋戦争末期に彼らは、国を思い、父母を思い、永遠の平和を願いながら片道の燃料で、敵艦に突っ込んでいった勇士である。出撃前に書いたと思われrる父母や家族に宛てた手紙見るにつけ、又画像を使った語り部の話を聞くにつけ、滂沱の涙を禁じえなかった。彼らの死は、犬死だったのだろうか?無駄死にだったのだろうか?一つ言えることは、彼らの死に依って終戦が早まり、現在の繁栄があるのは紛れもない事実である。
未だ世界では、紛争が絶えない。アルカイダなどの自爆テロを"カミカゼ"と言うそうだ。世界の人口は,70億人を超えた。過去の轍を踏むことなく誰一人として無駄死にしない時代は、何時の日来るのだろうか?
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<左上:飛行機の窓から微かに富士山を望む。左下:知覧武家屋敷の立派な庭。中:特攻隊員の銅像と訓練機。右:日本最南端の鉄道駅、西大山駅(バックに開聞岳が見える)≫*写真をクリックすれば大きくなります。



