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May

5月24日(月)  ≪"スタコイ東京"の坂下先輩と仲間たち≫

 "はぁ~、オラが東京さ来る時に、
  くにのおっかあの言うことにゃあ~
  東京っていうとかぁすったこえ、とこだで
  あっちゃさ行ったら気をつけろ"

1960年(S35)に発売 された菊池正夫のこの歌を知っている人も少なくなったろう。菊池は、後に城卓矢の名前で歌った「骨まで愛して!」を大ヒットしたので、憶えている人も居る筈だ。私の東京産業時代の先輩坂下博氏は、この歌が十八番で、この歌か同じく菊池の持ち歌である「ダッキャダキャ節」を宴席で歌っては、大いに場を盛り上げたものである。私は、1969年(S44)に新卒で東京産業(東証1部)に入社し、配属された建設機械部に約20年間在籍した。丸の内に勤務した13年間の内、数年間彼と一緒に仕事をしたが、折しも1972年(S47)には、 「日本列島改造論」を引っ提げて、田中角栄が首相となったため、日本全国が空前ンの建設ブームであった。

翌年の名目建設投資がGSPの約24.6%を占めた(2009年度は8.9%)事からしても、その状況はご想像頂けるだろうし、油圧ショベルを中心とした建設機械も大いに売れた。当時東京産業の建設機械部は3課有って、それぞれ10人近く居たのだから部長席を含めると約30人の大所帯であったが、その中でも彼は中心的な存在であった。1942年(S17)生まれのその彼も今や68才、現在札幌の在住しているが、彼が久し振りに先週東京に出て来た。早速、後輩の植田君が音頭を取って、22日の土曜日に8人が銀座の居酒屋に集まったのだ。それぞれ立場が変わり、面影は変化した(●^o^●)?ものの、話題は40年近く前の時代に遡り、大いに盛り上がったのは言うまでもない。

因みに、写真手前の岡澤君(4年?後輩)は、未だに独身を貫き通し?年1/3はヨーロッパ中心に活躍する貿易会社勤務、その右の植田君(同じく4年後輩)は以前も書いたが、恵比寿で旭川ラーメン「うえだ」を経営し、頑張っている。一番右端で指をカメラに指している同期の石川君は、退社後兄貴が経営する会社を手伝っていたが、現在のソニー損保の代理店をやってるそうだ。その左のヒゲのオジサンは、未だ4年生の男の子を頭に二人の子を育てている小島さんで、アパート経営の傍ら産廃関係の機器の代理店をやっている。彼は1年先輩なので既に60数才?であるが、当然の如く孫のような子供たちが、目に入れても痛くない程可愛いらしい。

その左の紫ぽいシャツを着ているのが、確か5年後輩?の甲田君で、彼だけ今現在も東京産業に在籍しているが、来年7月に定年を迎えるそうだ。学校も中央の後輩だが、何でも心臓弁膜症の持病が最近医者から指摘されたそうで、定年後は働かずに退職金で悠々自適な生活を送る積りらしい。その左が、話題の坂下先輩、その左の一番奥が私である。一番左の白い上着を来ているのは、1年後輩の菅沼君と言い、現在産業廃棄物処理会社に勤務しているが、社長はゴルフ三昧で会社を或る程度任されていると聞く。勤務地が神奈川県の足柄上郡にあるそうで、以前茨城県取手市に住んでいたが、最近横浜市鶴見区に新居を買ったらしい。

皆楽しかったらしく、今は亡きこれも愛すべき先輩の熊岡氏が名付けた「熊岡レストラン」を覗いてみたが、既に店仕舞いをしていたため、止む無く交通会館の地下で夜更けまで痛飲したのだった。

東京.JPG

            <交通会館地下1階の飲み屋さんのおカミさんは、手が震えていた¿>