4月21日(水) ≪「私の履歴書」≫
私は、昭和22年1月30日に三菱鉱業(現三菱マテリアル)に勤める父栄壮(えいそう)と夏子の6番目の子として福岡県の飯塚市で生まれた。もし私が日経新聞の「私の履歴書」に登場するとなれば、こういう書き出しで始めることだろう。更に続けてみよう。藤本家は元々広島県の造り酒屋の家系で、父の父親、つまり私の爺さんの松太郎は、弟に家督を譲り九州に渡ったそうな。父の遠い親戚で、許嫁(いいなずけ)だった母夏子は、旧姓を矢野といって黒田52万石の家老の家系で、母方の祖父である梓(あずさ)はチェロ弾きで登山家だったらしく、富士山に何度も登ったという話を幼心に聞いた記憶がある。
私が生まれた飯塚市は、五木寛之の『青春の門』の舞台になった筑豊の街だが、私は生まれた直後に、父の転勤で福岡市に移ったため全く記憶にない。その後、幼稚園と小学校の1年生まで福岡市で過ごし、再び筑豊の炭坑町である福岡県鞍手郡鞍手町大字中山に転居した。この街は、北九州市(小倉都心部)から南西に約20km、福岡市から北東に約60kmの距離にあり、筑豊地域の北端部に位置する歴史の古い街で、昔矢で馬の鞍を射抜く程の豪傑が居たと言う故事来歴からこの町名になったらしい。
私は、剣北小学校の1年後半から5年生の途中までの約4年間を過ごして、再び福岡市に戻るのだが、この炭坑町での出来事は、強烈印象として私の脳裏に焼き付いている。自然が豊かなところで、私は初めて透き通った川でフナや鯉を釣ったり、山では山芋掘りや鳥の巣の卵を持ち帰り孵化させようと試みたりで、都会では経験出来ない体験をした。当時は、昭和28年に始まった『朝鮮戦争』の影響で、石炭は"黒いダイヤ"と呼ばれ、病院やスーパー(購買といった)なども経営するこの三菱の街は大変な活況を呈していた。不良炭を大きく積み上げたボタ山の夜中に燃える赤い火や、炭鉱の坑道からカンテラを付けたヘルメットを被って出て来た炭鉱夫の煤けた(*_*;は、今でも鮮明に憶えている。
しかし、そこは完全な格差社会だった。一般の職員住宅は丘の上に有って、所長や副所長の家には庭に噴水が有った。一方、鉱員(炭鉱夫)の家と言うと長屋形式の粗末な住宅で、共同風呂、共同便所だったのである。そのような環境下で同じ小学校に通うのだから、身なりや持ってゆく弁当には大いに差が有ったのだ。勿論鉱員の子供の中では、おかずが入っていない「日の丸弁当」を持ってくることはざらで、持ってこれない子も多かったと記憶している。従って、勢い子供の力関係も格差が付いてきて、私なんかは今では恥ずべき事ながら、都会育ちを鼻にかけ、番長並みの振る舞いをしていたかも知れない。
最近、久し振りに当時の仲間達と酒を酌み交わす機会が有ったが、『俊雄ちゃん』は、坊っちゃんで良い暮らしをしていたね!と言われ、大きな身体を小さくしたしたものだ。では、「私の履歴書」の続きは、いずれ又! 20100421112050770.pdf(左をクリックしてみて下さい)
【写真左から次兄の善幸、六つ上の隆之、祖父の梓、三つ上の富子、母夏子、手伝いに来てくれた白石さん、私、長兄の博之、長姉の博子(時は昭和29年の暮れか30年の新年当時/博之と善幸は東京の大学から帰省中、姉の博子は第一子を身ごもっていた)】



