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2010年1月26日(火) ≪澤田美喜さんとエリザベス・サンダース・ホーム≫

昨日のブログを書くため岩崎家の家系図を見ていたら、≪澤田美喜さん≫の名前を見出した。今日は美喜さんと彼女が創った≪エリザベス・サンダース・ホーム≫の事を書いてみよう。美喜さんは、三菱財閥3代目久弥の子として1901年(明治34年)に東京都の文京区で生まれた。従って三菱の創設者岩崎弥太郎の孫に当たるが、「美喜」という名前は曾祖母・美和と祖母・喜勢から一字づつもらってつけた名前だそうで、名付け親は叔父にあたる三菱財閥2代目岩崎弥之助だという。

美喜さんは、祖母・喜勢から寝物語に祖父や父の話を聞いて育ち、それが後の人生の道しるべともなり小さい頃より妹たちに比べ男まさり、豪気で行動の人"女弥太郎"はまさに祖父の隔世遺伝?と言えるかもしれない。1922年(大正11年)にクリスチャンの外交官・沢田廉三と結婚してキリスト教に改宗し、アルゼンチンを皮切りに中国・イギリス・フランス・アメリカを巡るが、その間孤児院ドクター・バーナードス・ホームの院長やジョゼフィン・ベーカーマリー・ローランサンに出会い大きく人生観を変えるのである。

第二次大戦後、日本に進駐した米兵と日本人女性との間に多くの混血児が生まれた。それも祝福されずにこの世に生を受けてしまった子ら!ある日満員列車で美喜さんの目の前に網棚から紙包みが落ちてきたのは、黒い肌の嬰児の遺体だった。美喜さんの頭に血がのぼり、心臓が激しく鳴った。そして、イギリスの孤児院ドクター・バーナードス・ホームの記憶が突然よみがえったのである。美喜さんは天命を覚えて身震いし、「日本にはいま大勢の祝福されない混血孤児がいる。そうだ、私はこの子らの母になる...」と叫んだという。

夫の理解も得た美喜は憑かれたように行動を開始した。GHQに日参し「大磯の旧岩崎家別荘に混血孤児たちのホームを作らせて欲しい」と訴えた。その結果、1947年(昭和22年)、美喜さんはついに別荘を400万円で買い戻し、ドクター・バーナードス・ホームのように学校も礼拝堂もある≪エリザベス・サンダース・ホーム≫をスタートさせたのである。その時美喜さんは、46歳だった。その後美喜さんは1953年(昭和28年)小学校と中学校を併設した「学校法人聖ステパノ学園を創立し、約2000人近くの混血児を育て上げ世に送り出したが、1980年(昭和55年)5月12日スペインのマヨルカ島において心臓発作のため78歳で急死した。

確か去年だったと思うが、テレビで≪エリザベス・サンダース・ホーム≫から巣立った人達が澤田美喜さんを偲ぶドキュメンタリー番組を放映してしていたのでご覧になった方も多いだろう。私は、彼女のような人にこそ『ノーベル平和賞』が相応しいと思うが、如何だろうか? man_22.jpeg                 〈エリザベス・サンダーホーム定礎式の澤田美喜さん〉